IHO’s diary

たまにエッセイを書きます。sealine.tenshi@gmail.com

火の用心

年の暮れ。窓の下を火の用心の行列が通る。ピシャン、ピシャン、と拍子木を打って、「火の用心」と声を長く引きながら唱えるのが、どういうわけか「いよー」とだけ聞こえる。謡の掛け声に似ている。町内のおっさん連中らしいが、いいなあと思った。少し大げさに言えば、そこには何かミスティックな味わいがあった。

 

子供の頃似たような経験をしたことがある。二階の父親の部屋の窓から祭礼の行列が下の道を通るのを見た。近くの神社の祭礼だったのだろう。神輿は小さく笛太鼓もささやかな質素な行列だった。しかし見ているとなんだか不気味な感じがした。まるで彼らの目にだけあやしい何ものかが見えているかのような、あるいは、私にだけあの行列が見えているのかのような、そんなことを感じさせる光景だった。

 

昔の日本では当り前に聞かれた物売りの声などが今不意に聞こえてきたら、たぶん同じような神秘を私は感じるだろう。それだけ非日常というものの味わいから現代の我々は遠ざけられてしまっているのだ。現実の中に奥行きを見出すような経験を根こそぎ奪われてしまっているのだ。あるのは派手で騒々しいお祭り騒ぎばかりだ。おかげで巷は奥行きの乏しい人間たちであふれかえっている。

 

現代人も歌を歌う。カラオケは若者から老人まで大人気である。人気歌手やバンドのライブ会場にはたくさんの人が詰めかけ、毎年数えきれない量の楽曲が生産されている。けれどもそれらも一種のお祭り騒ぎであって、現実に奥行きをもたらすような働きは乏しく、またそれを期待する方がどうかしているだろう。それらはむしろ現実の表面に化粧を施し、美化された現実の気分を楽しむものなのだから。

 

通り過ぎて行った行列が三十分して帰ってきた。ところが行列には新たに一人のおばさんが混じっていて、彼女だけがいやにはっきりと「火の用心!」と叫んでいた。神秘はすっかり消え失せていた。ささやかな神秘を感じさせるにも微妙なる作法が要求されるのである。