IHO’s diary

たまにエッセイを書きます。sealine.tenshi@gmail.com

戦没農民兵士の手紙

岩手県農村文化懇談会編「戦没農民兵士の手紙」から。

 

『カアサン カアサン

セガネデノンキニシテクロ』

清美ハソウ言ッテ征ッタノス

ワラシハ清美一人ダデ、我ソウ思ッタノス

ヘイタイサイカネデスムモノナラ、ゼニッコ

ナンボ出ステモヨ、ナントカスベトオモッタノス

 

一面に苗の植わった田んぼのほとりに一人しゃがんで、寂しい顔をして、思いにふけっていられる。読んでいると、彼女の口から直に聞かされているような気がした。

 

夕日を浴びて、しょんぼり田んぼを見下ろしながら、息子が小さかった頃のこと、大人になり結婚し、その二か月後に召集されるまで、そしてニューギニアでの戦死の報を受け取るまでの記憶を、いつまでも思い出して、尽きることがないのか。

死んだ我が子と語り合っているのか。

 

この母親に向かって何と言葉をかけるべきだろう。息子さんは、きっと天国で幸せに暮らしていますよ、などと、気休めにもなるまいと思う。愛する人が死ねば、残された者は悲しむよりほかに何もない。神や仏に祈ることさえもはや余計なことのようだ。

できることは彼女の悲しみを思うことくらいだ。

 

それにしても、この写真の母親の姿の尊さ懐かしさ。心が素直で素朴な人ほど、自然な美しい姿で悲しむものか。

酒匂川サイクリングロード

 


午後四時ごろマンションを出て酒匂川をサイクリングしてきた。

このごろ友人と丹沢に登山ばかりして山頂からの景色は楽しんでいたが、夕方のサイクリングロードもまた違った興趣を味わえることがわかった。

空気が秋らしく澄みきっていた。河原で雁が二羽しきりに鳴き合っている。どこかもの哀しい声が好きだ。景色がひとりでに昔に還っていくような、不思議な気持ちになる。

万葉集で「かりがね」という言葉を見かけても、実際に鳴き声を知らなければ何にもならないんだなとつくづく思った。自転車を降りて茂みに下りたが、どういうわけか姿は見えなかった。

前から品のいい老夫婦が歩いてくる。昔の人が歩いてくる。そう言ってみたいような気になる。むこうで早々道を譲ってくれ、お礼を言ってすれ違う。さようなら昔の人よ。またどこかでお遇いしましょう。

山北あたりまで来ていた(らしい)。日が落ちるまでぼうっと霞む山と空を見ていた。

帰りは真っ暗くらのくら。走りながらライトめがけて虫が無数に飛んでくる。虫だけかと思っているとビヨッと何やら太いのが飛んできて肩にはりついた。見れば小さい蛙だ。思わず目を瞠って「おまえ蛙じゃないか」とつぶやきながら指で弾き飛ばした。

茂みから獣が飛び出して目の前を素早く走り抜ける。しっぽの形から推してたぶん狸だ。しばらくして猫も一匹飛び出した。

おばけでも出そうな静けさ。火の玉が出たらさぞ美しかろう、なんて考えながら、涼しい夕闇の一本道を夢見心地にすっとばした、秋の日の夕暮れの記録でござい。

 

 

 

 

初坐禅

北鎌倉で友人のKと会った。長い付き合いなのに会えば何となくお互いに照れくさい。円覚寺の石段下で久しぶりに彼の顔を見ると、照れくささから無性に口元がにやつくのを誤魔化すべく、彼が珍しく小洒落た帽子を被っているのを半ばからかうように指で示すと、向うは向こうで「何だ、この帽子がそんなおかしいか?やっぱこれレディースかな、いや、安かったから買ったんだよ」と照れだした。

 

鎌倉で何をしようというあてもなかった。いつもKとは話すこと自体が目的みたいなものだからどこで何をしようというつもりで会うわけではないのだ。ところがこの日はたまたま円覚寺坐禅会があることが下の掲示板に出ていた。しかもKは坐禅好きのキリスト教徒であった。無論一緒に参加しようと言い出した。

 

正直私は気が進まなかった。初めてという以前に、第一私は坐禅が不可能な体なのだ。といってどこか悪いわけではない。ただ極度に体が硬いのである。あぐらさえ上体を前に保てないほどひどいやつだ。そこで私は美術好きでもあるKに対し「中世の仏教美術の展覧会もあるらしいよ」と言ってみたが無駄だった。「ただ見るだけじゃつまらない、お前にもぜひ坐禅を体験してほしいんだ」こう言われてとうとう押し切られた。

 

まだ坐禅会まで時間があったから私の好きな東慶寺へお参りした後、鎌倉五山という定食屋で昼食を済ませ、再び円覚寺へ向かった。会場となる居士林の外の低い石垣に他の参加者たちと並んで座って待っていると、案内の坊さんが「今日は途中テレビの取材が入りますのでご了承ください」などと言い出した。足の笑ったみっともない私の坐禅姿を映されちゃあたまらないと思ったが、友は一言「そんなもの気にするな」である。気にすることが修養の足りない証拠かと妙に反省されて何も言えなくなった。

 

やがて時間になって薄暗い道場内へ通された。「テレビにどうしても映りたくない方はあちらの隅の方へお坐りください」とお達しがあったが私は知らん顔を決めこんだ。ありのままなる我が醜態を映したけりゃ映すがいい、どうせそんなもの誰も見やしないだろうと思い直していた。

 

私は室内へ来てしばらくは心が落ち着かず、無暗にKに向かってしゃべっていた。周りがだんだん静かになってゆくのも気づかずにひとりでべらべら口を動かしていた。気が付けば狭い土間を挟んで向かい合わせに坐っていたずんぐりした赤黒い顔のおっさんが怖い目で私を睨みつけていた。何人かはすでに坐禅していた。どうやら素人ばかりではないらしい。ふと横を見るとKも目を閉じていかにも坐りなれた良い姿勢を保っている。私はきょとんとした。

 

初めに坐禅の意義や坐り方について若い眼鏡の坊さんのお話があり、やがて何か木の板をぶっ叩くけたたましい音とともに一回目(五分)が始まった。結跏趺坐も半跏趺坐も私には何ら関係のない言葉だ。私は最初から苦しいあぐらで勝負した。そしてわが身体のおそろしい無骨と硬直とに今更のように驚き呆れた。今にも後ろへひっくり返ってしまいたい誘惑に丹田ならぬ単なる腹筋を強張らせて立ち向かっていた。

 

二回目(十五分)はあっさり観念して正坐。これなら大丈夫。ところが今度は途中から口に唾が溜まってきて、呑みこもうか迷っているとKでない方の隣の若い男性がごくりと喉を鳴らしたので、おれは絶対にそんな間抜けな音は立てんぞとがんばり続け、またもや坐禅は失敗、三度目(十五分)にようやく落ち着いた気持ちで坐っていられた。しかしすべてが済んだ後で、今度は足がしびれて立ち上がることができず、みんながぞろぞろ道場を退出する中、私は一人最後まで畳にひっくり返っていた。テレビカメラはいつ来ていつ帰ったのかさっぱりわからずじまいだった。もし坐禅中一人だけ正座しているまぬけがいたらそれは私である。

 

坐禅会で心を掃き清め今日一日の功徳を積んだつもりの二人は八幡様境内の石灯籠の下にて屋台の牛タン串を喰らい駅近いカラオケ屋で大いに騒いだ。そして鎌倉には喫煙できる店がほぼ皆無と知るや急いで大船まで引っ返し、とある海鮮居酒屋の座敷へ上がりこんだ。私は畳に片膝立て、もう片っぽは投げ出しで後ろにのめるのを片腕を突っ張って支えつつスパスパ煙草をふかし、転職先でヘマばかりやっているというKにくどくど言いたいこと言ってしょげさせたり矢鱈と政治論を吹っ掛けたりしながら、何だか妙な具合に帳尻のとれた楽しい時を過ごした。

火の用心

年の暮れ。窓の下を火の用心の行列が通る。ピシャン、ピシャン、と拍子木を打って、「火の用心」と声を長く引きながら唱えるのが、どういうわけか「いよー」とだけ聞こえる。謡の掛け声に似ている。町内のおっさん連中らしいが、いいなあと思った。少し大げさに言えば、そこには何かミスティックな味わいがあった。

 

子供の頃似たような経験をしたことがある。二階の父親の部屋の窓から祭礼の行列が下の道を通るのを見た。近くの神社の祭礼だったのだろう。神輿は小さく笛太鼓もささやかな質素な行列だった。しかし見ているとなんだか不気味な感じがした。まるで彼らの目にだけあやしい何ものかが見えているかのような、あるいは、私にだけあの行列が見えているのかのような、そんなことを感じさせる光景だった。

 

昔の日本では当り前に聞かれた物売りの声などが今不意に聞こえてきたら、たぶん同じような神秘を私は感じるだろう。それだけ非日常というものの味わいから現代の我々は遠ざけられてしまっているのだ。現実の中に奥行きを見出すような経験を根こそぎ奪われてしまっているのだ。あるのは派手で騒々しいお祭り騒ぎばかりだ。おかげで巷は奥行きの乏しい人間たちであふれかえっている。

 

現代人も歌を歌う。カラオケは若者から老人まで大人気である。人気歌手やバンドのライブ会場にはたくさんの人が詰めかけ、毎年数えきれない量の楽曲が生産されている。けれどもそれらも一種のお祭り騒ぎであって、現実に奥行きをもたらすような働きは乏しく、またそれを期待する方がどうかしているだろう。それらはむしろ現実の表面に化粧を施し、美化された現実の気分を楽しむものなのだから。

 

通り過ぎて行った行列が三十分して帰ってきた。ところが行列には新たに一人のおばさんが混じっていて、彼女だけがいやにはっきりと「火の用心!」と叫んでいた。神秘はすっかり消え失せていた。ささやかな神秘を感じさせるにも微妙なる作法が要求されるのである。